第97話   釣は趣味か道楽か?   平成16年04月27日  

最近は釣は大衆化し、更にスポーツの一つとしても見られ多くの若者も参加し盛んに行われるようになった。三〜四昔以前の地方の釣では、釣をザッコ釣と云い一部の裕福な暇人とか隠居爺さんがするものと見られていた。だから若者が釣をすると、とかく白い目で見られ、あたかも道楽者の様に見られることしばしばであった。

それが最近は休日が増えて川や海に釣の出来る処なら何処でも釣り人が闊歩している。海岸の当地にも内陸から23時間もかけてくる人も多い。しかし、なんと云っても釣をしない人から見れば、ただの遊びの一つとしてしか見てもらえないのが現実である。釣が好きで趣味と思っている者だけが、勝手に趣味と思っているだけである。

釣をする者は、ただぼんやりと釣り糸を垂れている訳ではない。絶えず緊張し魚の当りを待っている。釣れなければ釣れないでなんで当りが来ないのか、当りが来ても釣れなければ何で釣れなかったのか、釣れれば釣れたで自分の工夫が上手く行ったと喜ぶ。常に何か考えながら釣をしているのである。もちろん達人や名人の域に達すれば自然と一体化し、無心に当りを待つだけであろうが、私みたいな凡人にはまだまだ其の境地には達する事が出来ない。

釣れなかった時に「釣るのが目的でなく遊びに来たのだから、自然のきれいな空気を胸いっぱい吸って帰ればそれで十分なのですよ」とは作家井伏鱒二氏の言葉である。がしかし、自然を見る事が目的ではなく、現実には釣が目的であるから、釣れない自分にそう言い聞かせているだけなのではないのかと凡人の自分には思えた。如何にも文人的な筆で装飾した釣だと感じた。それで筆の表現上の事だけかと思っていると、決してそうでもないらしい。同じく作家の開高健氏との対談でもその様に話しておられた。この両氏は文人として、結構名の知れた釣師である。

何気なく釣を始め、いつの間にか釣にはまってしまう。魚を釣っていた本人が、いつの間に魚に釣られてしまう。趣味としての釣なら何時でも止められる筈であるが、いつの間にか道具を集めはじめ、何かにつけて何を釣る為とか云って竿を何本も買うようになったらもうお仕舞いだ。もう完全に趣味が嵩じて道楽へ一歩踏み込んでいる。道楽となってら止めるに止められないのが釣である。

自分ではやれスポーツだとか趣味の釣だとは云っていても、家族を含め第三者から見ればやはり道楽者としか映らない。「飲む、打つ、買う」の三大道楽をきっぱりと止められた人でも、釣だけはどうしても止められなかったという逸話もある位である。事実自分の周囲にも身体を壊したが、どうしても釣りだけは止められず釣だけの為に好きなパチンコを止め更に酒とタバコを絶った釣り人が居る。それから25年酒もタバコもピッタリと止め更にあれほど好きだったパチンコもやっていない。好きなのは釣とちょぴり○○が好きな様だ。

魚釣りとは単純に遊び(遊興)である。しかし、遊びが嵩じて・・・道楽となり得る物も釣である。そんな釣で自らの心身をリフレッシュして気持を高揚させ、さらに周囲に不愉快な気持ちを与えない釣が真の釣であると自分は考えている。

何事も過ぎたるは及ばざるが如し・・・。